秋葉原がオタクの街になった理由

東京都千代田区または台東区に位置する「秋葉原」は「オタクの街」として知られるが、これには戦後のGHQの政策が大きく関係している。

秋葉原(2013年)

第二次世界大戦の直後、秋葉原の周辺一帯は空襲により焼け野原の状態だった。そこから復興していく中で、やがて現在のような「オタクの街」になっていった。

終戦後の秋葉原近くの神田周辺の道路には、電機工業専門学校(現:東京電機大学)という工学系の学校の生徒向けに真空管などのラジオ部品を販売する露店が数多く並んでいた。その当時、戦争によりラジオのメーカーの工場が破壊されてしまい、完成品のラジオを出荷できない状態だった。しかし、当時のラジオは数少ない娯楽の一つであり、技術のある人だと部品を買い集めて、自分でラジオを作ることができた。こうして神田にはラジオ部品を取り扱う専門性の高い露店が増えていった。

そんな中、1949年(昭和24年)に連合国軍最高司令部(GHQ)が「露店撤廃令」を出した。この露店撤廃令はGHQが主要道路の整備や拡大などを目的として出した政策であり、神田の露店も立ち退きを余儀なくされた。

しかし、立ち退くと多くの人が生活の危機に直面するため、露店商の人々がGHQに直談判をしに行った。交渉の結果、露店商には商売のできる、代わりの場所が提供された。その場所が当時たまたま空いていた秋葉原駅の高架下などのスペースだった。

このようにしてGHQの政策によりラジオ部品を取り扱う露店が、現在でも残っている秋葉原駅の高架下などに集中した。そして、秋葉原はラジオ部品を販売する専門性の高い店を中心とする電気街となった。

1950年代には徐々に大手メーカーの経営が再建し、色々な家電製品の生産が開始された。この頃から秋葉原にあった電気店は一般客向けに家電製品を販売するか、今まで通り技術者やマニア向けに部品を販売し続けるかの二つに分かれた。そして、家電製品を売るようになった店舗がその後の家電ブームを牽引していく。こうして1960年代になると秋葉原は「家電の街」へと発展した。

高度経済成長により生活が豊かになると、秋葉原の表通りの家電販売店は多く人で賑わった。その一方で、家電を求める家族が多く訪れた時代にも、裏通りには電子部品を売るようなマニアックな店が残り続けた。

1973年(昭和48年)のオイルショックから始まる経済不況により、徐々に家電製品の売り上げが減少し始めた頃、裏通りの店ではパソコンが売れ始めた。当時のパソコンにはマウスもなく、今と比べると非常に専門的な知識が必要なもので、まさにマニアックな商品だった。家電の流行に流されずにマニアックな商品を売り続ける裏通りの店と、それを買いに来る同じくマニアックな客が長年の間に関係性を築き上げ、秋葉原はパソコンが売れる街となった。

更に1990年代のバブル崩壊をきっかけに表通りの家電販売店が閉店していくと、入れ替わるように大型のパソコン専門店がオープンした。これにより裏通りで生まれたパソコン文化が秋葉原の顔となり、秋葉原は「パソコンの街」となった。

このパソコンこそが秋葉原をオタクの街に変えるきっかけとなった商品である。当時のパソコンユーザーにはハイスペックなパソコンを使ってゲームをする人が多く、美少女やアニメを題材としたパソコンゲームも数多く登場した。パソコンからゲーム、そしてアニメへとオタク文化が発展していった。

秋葉原は家電を多く販売する「家電の街」から、パソコン好きが集まる「パソコンの街」となり、結果的にゲームやアニメ、フィギュアなどの需要が拡大したことで、多くのゲーム・アニメグッズショップ、フィギュア専門店などが進出した。こうして2000年代には「オタクの街」として知られるようになった。

秋葉原(2003年)

GHQの露店撤廃令によって集まったラジオ部品店から秋葉原の歴史が始まり、家電ブームにより多くの人を集め、その後にパソコン文化が開花し、そのパソコンが呼び水となりゲームやアニメ、フィギュア、漫画などが並ぶオタク文化の街へと変貌した。

秋葉原の街がこのように大きく変化できた理由として、渋谷や池袋の駅前にあるような巨大なデパートが少ないことが挙げられる。秋葉原の土地の区画は小さく細切れになっていて、小規模でマイナーな店が駅前や表通りに出店しやすかった。この特徴により秋葉原の街の顔が次々と入れ替わり、常に時代の先端を走り続けることができた。

リンクWikipediaコトバンク

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2020/5/13

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カテゴリー「歴史・文化

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